ケマル・アタテュルク
世界史リブレットシリーズの「ケマル・アタテュルク」を読んだので、ざっくりまとめておく。
流れ
第一次世界大戦まで・・・
青年トルコ人革命(自由の宣言)
イタリア戦争とバルカン戦争
- イタリアが急にリビアに攻め入りイタリア戦争が勃発
- トリポリにいたケマルも参加し、トゥブルク近郊でイタリア軍を撃退
- 第一次バルカン戦争が勃発したのでイタリア戦争は放置しリビアをイタリアに取られる
- 第一次バルカン戦争で参謀長に任命されるも、各所でオスマン軍は敗れる
- 第二次バルカン戦争ではエディルネを奪取
第一次世界大戦
- 連合軍のゲリボル半島上陸をアナファルタラルで防ぎ「アナファルタラルの英雄」として報道される
- その後、上層部に苦言を呈し、閑職に追われ、のちのメフメト6世(オスマン帝国最後のスルタン)とドイツ訪問
- メフメト5世の崩御により、メフメト6世が即位し、ケマルを司令官に戻す
- 敗走が続くオスマン軍の中で、アレッポ北部で防御線を引きイギリス、アラブ勢力のアナトリア侵攻を防ぐ
- 終戦により稲妻混成軍が解散となり、ケマルはイスタンブールに戻る
- オスマン帝国大宰相のイゼト・パシャの対応が軟弱なことに抗議し、自身の政治活動開始を決意する
祖国解放までの道のり
祖国解放運動の始まりからアンカラ政府の成立
- ギリシャが西部アナトリアを狙ってイズミルに上陸
- トルコ系住民が反対し、ギリシャ軍の内陸への侵攻を食い止める動きをしだす
- 南部アナトリアでもフランス軍に対して武装グループが抵抗
- これらのトルコ人の抵抗勢力は「国民軍」(非正規の武装集団)と呼ばれるようになる
- 東部アナトリアの治安安定のため、メフメト6世はケマルを派遣
- 各地の「国民権利擁護委員会」を糾合し、祖国解放運動を進める
- イスタンブールの政府から睨まれたので、ケマルは軍籍から離脱する
- 東部向けに「エルズルム会議」、全国向けに「シヴァス会議」を開催し、祖国解放運動の方針を発表する
- 「国民権利擁護委員会」がオスマン帝国議会の代行をすると宣言し、その後のアマシアの会議で「国民権利擁護委員会」が合法の組織であることが認められた
- オスマン帝国議会で「国民誓約」が承認された
- 大国民議会政府(アンカラ政府)として、オスマン帝国の正統な政府であることを主張
祖国解放戦線の展開
東部戦線
- アルメニア人国家と戦い勝利。国民誓約通りの国境線を確保
南部戦線
西部戦線
トルコ共和国の成立
ローザンヌ会議
- 南部戦線のイギリスとの調整は残ったが、他国とは安定した状況を作ることができた
- カピチュレーションの廃止を勝ち取った
その他の重要な実施内容
- スルタン制度の廃止
- スルタン制の廃止後、カリフ制の廃止と新憲法の制定
- 国際連盟の加入
- ラーイキリキ政策の推進(スルタン制、カリフ制の廃止とも関連する政策)
- 帽子改革(国家公務員の帽子着用義務化、旧体制の象徴となる帽子フェスの批判)
- 姓の採用
- 単位の国際化(グラム、メートル採用)
- 文字改革(トルコ語のラテン文字表記化)
個人的な感想
- 全体として、淡々と事実ベースに話が進むのと、人名が多数登場して混乱するので、読み進めるのが辛い
- この本だけ読むと、祖国解放運動初期からの戦友と意見を違えても独裁政治を推し進め、強引な印象を受ける。ただ「トルコ建国の父」と慕われていることを踏まえると、強引な部分も結果としては評価された、ということなのだろう
- ケマル自身が、トルコ独立の半世紀ほど前に日本で起きていた「明治維新」を参考にしていたとの話があるが、全体を通してみると、なるほどと思った。若干違いはあるが、徳川幕府という一強に対して、近代化を推し進め、各種制度を整備していくところは、幕末~明治の流れに近い
- 閑職に付いているときにメフメト6世と親しくなり、メフメト6世の即位後に前線に戻してもらった経緯がありながら、最後のスルタンとしてスルタン制を廃止するときのケマルの気持ちはどんなものなのだったのだろうかと心情を探った。必要とは思いながらも迷いなどあったのかな、などと思った