オスマン帝国の歴史でも主役級の功績を持つ「冷酷者」セリム1世
オスマン帝国の歴史を調べてる中で、主役級なのじゃないかと思い、セリム1世について整理してみる。
ざっくり
セリム1世(1465年10月10日 - 1520年9月22日)は、オスマン帝国の第9代皇帝(在位:1512年 - 1520年)。
(出典:Wikipedia)・・・ざっくり過ぎる・・・
「オスマン帝国の時代 / 林佳世子」
- 8年と短い治世の間に急速に領土を拡大させた
- イランで興ったサファヴィー朝による東アナトリアの危機に対して、チャルディランの戦いで勝利。中世的軍事力のサファヴィー朝に対して鉄砲、大砲を用い、近世的軍事力の差を見せつけた勝利となる
- マムルーク朝を滅ぼし、南東アナトリアからシリア、エジプトを領有、メッカ、メディナを保護下にいれる
「オスマン帝国治下のアラブ社会 / 長谷部史彦」
- マルジュ・ダービクの戦いを制してアレッポ(シリアの都市)を占領
- 第二次マムルーク・オスマン戦争ではオスマン帝国の近世的な火力で圧倒し、トゥーマンバーイを敗死させることでマムルーク朝を滅亡させる
- マムルーク朝のスルタンがおびていた「ハーディム・アルハラマイン(両聖地の僕)」の称号をセリム1世のものと宣言した
- アッバース家のカリフをイスタンブールに移動させる
「オスマン帝国 / 鈴木薫」
- シーア派のシャー・イスマーイールの影響でアナトリア内でも反乱が起き、当時の大宰相が戦死した
- そのようなサファヴィー朝の影響が強くなる中で優柔不断なバヤズィト2世を廃して、セリム1世が即位
- セリム1世は自身の詩集を持つ優れた詩人であった
- セリムの大宰相の多くも処刑されており、冷酷者と言われている
- オスマン朝歴代君主の中でも屈指の軍事的才能があった
- シーア派であるサファヴィー朝の台頭に抵抗するために、徹底的に弾圧し、4万人近い親シーア派分子を捕まえ、その多くを処刑した
- サファヴィー朝の首都タブリーズの西方のチャルディランの戦いで勝利(戦闘の経過も他の本よりも詳しく記載されている)
- セリム1世の時代のイスラーム世界は「オスマン朝」「サファヴィー朝」「マムルーク朝」の三極構造だった
- アッバース朝カリフの末裔をカイロに迎えカリフ制を敷いていたマムルーク朝は、スンナ派界隈では高いプレステッジを持っていた
- チャルディランでサファヴィー朝がやられたのを見ているので、オスマン帝国がマムルーク朝に攻めてくるのではないか?というマムルーク朝の懸念から、サファヴィー朝と手を組もうとしていた
- セリム1世はそれを察知し、マムルーク朝討伐の準備を進める
- シリアのアレッポの知事が、マムルーク朝スルタンのカンス・アル・ガブリと不仲であることを知り、内応する
- その後、マムルーク朝討伐を開始する
- 1516年にシリアのアレッポ北部のダービクで戦闘が開始され、マムルーク朝スルタンのカンス・アル・ガブリが急死(戦士とも病死とも言われている)
- カイロ東北方のリダニヤでマムルーク朝の新スルタンのトマン・バイが徹底抗戦の構えを取る
- 事前に防備を固め、ダービクの反省を活かして大砲や銃も揃えていたが、セリム1世は迂回してトマン・バイの背後をついて勝利
- 1517年2月にカイロ城にいたトマン・バイも逃亡し、セリム1世がカイロ城に入城した
- 1517年4月にトマン・バイも捕らえられ、処刑されマムルーク朝が滅亡した
- 1517年7月にメッカとメディナの鍵が渡され、2都市の守護者として認められる
- 守護者となったことで、東南アジアや中央アジアにオスマン帝国の盛名が伝わることとなる(イスラーム世界の代表的存在となる)
- カイロの帰りに多数の学者・芸術家・技術者を連れてイスタンブールに帰る
「オスマン帝国 / 小笠原弘幸」
- バヤズィト2世には奴隷を母とする子どもが8名いたが、成人して王位継承候補となったのは「アフメト」「コルクト」「セリム」の3名
- セリムの母は奴隷ではなくドゥルカドゥル侯国の王女という説もある
- 黒海沿岸東方のトラブゾンの太守をしていた
- サファヴィー朝の攻撃を撃退し、さらに攻め入ったことで父バヤズィト2世から怒られる
- 無理やりイスタンブールに入城しようとしたが、父から兵を向けられカッファに追い返される
- その後、兄弟がイスタンブール入城を試みるも失敗するのを見ながら、入城
- サファヴィー朝との闘いはムスリム同士ということもあり、自軍の兵士が不満を持ったりするも、チャルディランで激突し、鉄砲を駆使して勝利
- 首都タブリーズまで攻め込むも、厳しい寒さのために撤退
- 次にラマザン侯国を臣従させ、ドゥルカドゥル侯国を征服し、マムルーク朝と国境を接するようになる
- 1516年、シリア北部のアレッポに近いマルジュ・ダービークにおいて、マムルーク朝のスルタンのカーンスーフ・ガウリーを敗死させる
- マムルーク朝は数は多かったが、鉄砲を持っていなかったので、オスマン帝国の圧勝となった
- カイロ近郊のラダーニーヤでも鉄砲を駆使し、ガウリーの次のスルタンのトゥーマンバーイを打ち破る
- エジプト支配を固めたあとに、学者たちや膨大な書籍に加えて、アッバース朝の末裔もイスタンブールに持ち帰る
- 冷酷王セリムは「当代のアレクサンドロス」とも呼ばれた
- 2年1ヵ月のエジプト遠征のあとは、サファヴィー朝あるいはロードス島を狙っていたようだが、1520年に黒死病にて死去
- 後継者争いで揉めないようにスレイマン以外を処刑したとも言われている
「オスマンvsヨーロッパ / 新井政美」
- バヤズィト2世の子どもの中では、長兄ではない
- 祖父メフメト2世の軍事的才能を受け継ぎ、イェニチェリにも人気があった
- 1512年にイェニチェリを使って父バヤズィト2世に退位を迫って即位
- チャルディランでサファヴィー軍を撃破し、首都タブリーズまで攻め込む
- タブリーズから多くの商人や職人をイスタンブールへ移住させ、帝都の充実を図った
- 1517年1月にカイロを征服し、6月にメッカのシャリーフ(首長)の忠誠も獲得した
- カイロの主だった商人、職人、ウレマー(宗教知識人)など2000名ほどをイスタンブールに移住させる
個人的まとめ
軍事的才能に恵まれイェニチェリの支持を得る一方で、自身の詩集を持つ詩人としての一面もある人物である。東方の太守をしていたこともあり、サファヴィー朝の脅威を間近に感じていたようで、父バヤズィト2世を廃してまで自身がスルタンに即位している。
スルタンとしての大きな功績は主に3つで、「サファヴィー朝の撃退」「マムルーク朝の滅亡」「メッカ・メディナの保護者となる」という点かと思う。保護者となることで、イスラーム世界でのオスマン帝国のプレゼンスを高めることに成功している。
領土拡大の侵略をする中で、商人・職人・知識人などをイスタンブールに移住させ、首都イスタンブールの繁栄にも一役かっている。
シーア派の大粛清や、大宰相の処刑などもあり、「冷酷者」としての異名も持つ。